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支援の意味と想像力

こんにちは。毎日暑いですね。

ちょっと離れた場所では物資も連絡手段も滞って大変だというのに、、こちらは普通に時が流れていて。なんだか自分が不思議です。

被災された地域の一刻も早い復興を願います。

 

さて、これから話すことは多面的に物事を見た、ある一面の話です。

とくに私の分野では気になる面ですので、世間一般の角度とは別の視点かもしれませんが思うことを書きます。

この頃、通り魔や虐待等、耳にしたくない事件を聞く機会が増えました。

すごく辛くなると同時に「誰かそうなる前に、加害者がそこまで行き着かないようどこかの時期で軌道修正できなかったのだろうか」

と思ってしまいます。

加害者の肩を持つとか被害者の方の気持ちを考えていないとかではなく、2度とこんな事件をなくしてほしいからこそ、思うのです。

生まれながらに極悪だったわけではないだろうに、どうしてこんなことに‥と思ってしまいます。

怖いとか、事件を防ぐための体制が、とかそういうのだけでなく、内面から手を打たなければ、どこかでまた違う形で歪みが生まれてしまうのではないだろうか。。

 

小さい時の家庭環境や学習環境

知的なレベルや

発達障害

社会に出てからの環境は

問題なかったのだろうか、、と。

 

加害者のそれまでの長い背景がとても気になってしまいます。

 

自分の身を守る方法は本当に必要な時代になってしまったけれど

もっと根本的に人間同士が生きることの本質に、教育的に迫りきれていない気がしてなりません。

 

少なからず社会的背景も影響していて、産んだ人や育てた人、本人の問題のもっと根本を辿れば、生物学的に人間社会は無理が生じてるわけで。

特に日本はものすごい建前社会で、ストレスの強い生き方を強いられている面もあります。言葉尻一つにしても、あっちこっちの立場や体裁を守るのに精一杯で、自分の気持ちをストレートに出すことが 難しいところがあると思います。

私もその時代に順応しちゃってる1人だし、矛盾はありますが、この加速をなんとかしないととは思うんです。

 

また少し違うように感じるかもしれませんが。

社会を営む私たちは、いわゆる目に見えて障害のある人だけでなく、何かで困っている人や今の競争社会に順応し難い人をみんなでサポートしたり、早い段階から、しかも生涯かけて教育や支援をすべきなのではと思うのです。

大人になったら自己責任なんて言える時代ではなくなっていると思います。

もはや学校教育を軽視しがちな大人が多い中、学校だけでは人間教育は追いつかないままです。

 

障害者手帳を持っていれば

車椅子に乗っていれば

ヘルプマークがついていれば

愛の手帳を持っていれば

子供やご老人なら

手助けの対象になるのですか?

 

それは当たり前のことで、もっと目に見えないところで多くの人が色んな問題を抱え

長所短所といわれるものをもち

それが自分の思う常識感より行きすぎることも当たり前にあると思うんです。

賢くたくましく生きれる人はそれは立派なことだと思います。

でも私だって、誰だっていつ社会に適合できなくなるかわからない。

大きな問題に直面したら精神的な病になるかもしれないし

怪我したり、何かの衝撃で今と同じようには働けなるかもしれない。環境が全く変われば、誰が生きることに障害を感じる立場になるかは、分からないと思うんです。

誰もが異なる身体と精神を持っているわけで。障害のあるない含め、健常者とくくっている本人たち同士こそ(そもそもそのくくりとか、境目こそあってないようなものだと思うのだけど)もっと本当の意味の支え合いを考えるべきなんだと思うんです。

 

障害者支援という言葉を口にする前に

支援すべき対象が、家族でも友達でもクラスメイトでも、会社の同僚でも、男でも女でも、一般的に障害と言われてるものがあってもなくても。

誰かが見ていなくても、見ていても。

同じようにどんな人とも支え合いができますか?ってことだと思います。

 

これはとても難しいことだけれど、みんなが一生涯かけてやろうと心がけなければいけないんだと思います。でないと、結局全ての人にとって良くないことが起きちゃうと思うんですよね。

私がそれを本当に学んだのは大学から社会人にかけてくらいだったから、学ぶのが遅かったけれど、それって長い時間かけて考えなければ、私の知的レベルでは思いもつかないことでした。

部活という過酷なまでの連帯責任や、責任が重くかかる仕事を他人と共にやってきて、本当に深いところで繋がって、たくさんの温かい人に触れて、ようやく考える種をもらいました。

それでもまだまだわかり切ってないこと、相手の心を想像しきれず人を傷つけてしまうこともある日々です

 

だから、、。

いろんな意見はあると思うけど、偽善じゃなくて、もっともっと他者を受け入れて、その場にいる仲間を大切にして、生涯かけて相手の立場に立つことを学び合っていきたいと思ってて。

好き嫌いとか、仕事の効率とか、会社の業績とか、

それぞれ守りたいものもあるかもしれないけど、そこではない心の部分とか目に見えないところにこそ目を向けないと、どこかに人の悲しみが溜まり続けますよね。

 

私も自分の物差しや努力量を基準にして、人を苦しめていたこともあると思います。今も知らず知らずにそうしてしまってるかもしれないです。でもそれで失敗したくないと日々思ってます。

 

もちろん相性とか距離感とか、そこは大切にすべきですが。ただ自分にとって偏った面から見て不利益と思われる存在を排除して、目の前から見えなくなればここは平和だと満足する、そういう風潮はなくしたいなと思うんです。

 

SNSでこれを言うのはどうかと思いましたが、今日は思考にふける日なので書きました。

障害者支援をしている方にも、していない方にも、考えてほしいなぁと思うことです。

人はみんな違いますから、反対意見もあっていいです。

でも私も含めお互いに想像のつかない相違も上手く受けて止めて、心豊かに共存したいですよね。そんな社会、そんな家庭、そんな地域、そんな国だといいなぁって思います。

そういう一人一人の毎日の心がけが、結果悲しい事件を起こさないことにつながって行くのではないでしょうか。

 

朝施設での仕事後、ランチした素敵なカフェで、のんびりそんなことを考えてみました。

ついでに髪ゴムを買ったら素敵な袋に入れてくれました! これの素敵さをぜひたくさんの人に想像してもらいたいなぁ。

 

郁美

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