こんにちは。
頭の中に色々溜まりすぎて久々blog!
立場や年齢的なもののせいか、昔より言いたいことが言いづらくなりました‥今日はできるだけ言葉にしたいと思います。
だいぶ前のことになりますが、deaf(耳の聞こえない方)の生徒さんと、ダンスイベントに出演してきました!数年前から、手話が少しできるインストラクターだからということで遠方からダンスを習いにきてくれているdeafのお客様が数名いて。そこから数年通ってくれていて、イベント出演が叶うまでになりました^_^
deafの方は聞こえないので、音楽はもちろんアナウンスや音声の情報を声以外の手段で得る必要があります。なので参加するにあたりどんな支援が必要か、どんなことまでは可能か、彼女達とイベントの主催の方を繋いだり、やりとりを少しだけサポートしています。近年、各所の報告や要望を聞いたり、サポート中で『支援と差別』について考えることが増えました。
共感もあれば反感もあるかもですが、考えを書いてみたいと思います。
肢体不自由学校に勤める前、大学生の頃から発達障害の子の支援で修学旅行の引率を手伝ったり、親がかつて施設ではたらいたいたり、何かと繋がりがあったからか、気づけば長く障がいのある方々や子供たち、保護者、またはその現場に関わってきました。
障がいと言ってもその種別や必要な支援も様々でわたしにもまだまだ分からないことや足りない視点があります。講師として現場にプログラムを提案したり、手話ができるようになってきてはいても、毎回がまだまだ手探りです。
そんな中でさまざまな人の発言や意見を聞きくほど悩ましくなります。差別とか、いじめとか、そういうワードが非常に偏りがあり、言葉が先行するのも問題だなと思います。
差別ではなく事実の前提として、障がいといわれてるものには、ある程度の特徴や違いなど種類があります。四肢などの身体が不自由な肢体不自由(車椅子などを使っている方々)それから聴覚障害、視覚障害、知的に障害のある知的障害、または見た目にはわからずとも情緒面や行動で偏った特徴がでる発達障害、またそれらを併せ持った重複障害など、私が知らないものもあると思います。
それらの違いから、必要な支援(手助け)は全く違います。例えば車椅子の人たちや視覚の不自由な人であれば移動やスペースなどのハード面の配慮。聴覚障害の方であれば、情報伝達の方法の配慮。肢体不自由の重度重複の方々には、看護師さんや医療的なケアができる人が同行しなければ外出ができない事もあるかと思います。
一つの新しいイベントに参加する場合、主催側はそれらをある程度知る必要があるし、参加者自身が準備しなくてはいけないこともあり、準備は互いに容易ではありません。
不慣れであればあるほど準備が容易でないことは事実です。そこは差別ではなく事実。例えば不慣れな主催者側に要望だけを次々伝えて、差別をするな、主催側の準備は義務だ等と言っても実際的にかかるお金や労力は存在し、その事実は変えられません。ただ差別をするなと強調するのも、社会が定めたルールだけが先行するのも十分な問題解決ではないと私は思っています。(今の日本社会の障害者雇用もルールに現場が追いつかず大変そうな事例を聞きます)
ただ、大変だからと言って、頭ごなしにそう言った方々の参加を断ることも、形だけ受け入れたフリをしてバリアを見て見ぬ振りをするのもやはり差別です。主催側はとにかくできる限り、場合によっては多少身を削ろうとも歩み寄り、真意を理解し、手を取り合う姿勢が必要だと思います。もちろん主催側一方だけでなく互いの歩み寄りが必要だと思う。
片方だけが歩み寄るのではなく、何が必要で、何が出来て、そしてどこは出来ないのか、それが何故かも含めて互いに出し合い、できる範囲を妥協しながらでも埋めていくことが結局は必要だと思います。そしてそこへの協力者が増えれば先に言った実際的な負担も軽減されていくと思います。
また意見や要望に健常者からの意見か、障害者からの意見かなどのくくりは必要なく、互いに解決したい事実に手立て見つけて、解決していけたらと思っています。
考え方は全て個人によって違うし、その違いに立場や障害の有無、はたまた性別などのカテゴリー分けを作っても全く意味がないし、それが差別思考に繋がる。見ている側面が違う相手に意見を伝える時、必要のない差別視や区別する用語を強調してしまってはいないか??ということに自分を疑って見続けられたら、、と自分自身も思っています。また多くの人がそうであったらいいなと願っています。
私自身怒ることも意見することも、考えが違ってイライラすることもあります。でもそれは人と生きる上で多かれ少なかれあることで、障害の有無や国籍や立場とは関係のないこと。話し合い歩み寄る必要があるだけのことです。
歩み寄りの姿勢がなく一方的に攻撃や批判をする人であれば、残念ながらそれが誰であってもさようならすることになるし、それは差別ではなく人付き合いの問題だと思います。
必要な支援に違いがあるように、各個人によって乗り越えてきた壁や苦労が似ていたり、それによる思考の傾向性は確かにあるのかもしれません。ただ意見や要望を伝えるのに、カテゴリー分けは必要ない。
一人一人が人として向き合いどうしたら今目の前にある見えない壁をどう乗り越えられるか、という事実を差別や格差などという言葉で片付けずに歩める社会になったらなぁー、と思っています。
いくら社会の制度が発展しようとも、人としてのあり方が1番大事で、現場は泥臭くやることが必要不可欠です。
deafの皆さんと触れ合うたびに、自然に手話が少しは出来る様になるし、(事実自分はそうだし)支援って自然に生きていれば、少しずつ誰にでもできることなんじゃないかなって私は思っています。支援してます!応援します!って言葉にして言うよりも、まずいろんな人たちと話して、予測しなかった要望や未知なことにも耳を傾け、意見を交わし合い、共にやれることを探す。結局はその人たちとリアルに一緒に過ごし長く歩み続けることなのかな。。
今日本では障がい児の出生率は年々増えていますが、その背景が自分に1ミリも関係ない人なんて、今の時代を生きる人に1人もいないと思います。自分や自分の見てきた範囲にだけにメリットがある生き方を推奨していては、決して豊かにはならない。
それぞれ生きてきた経験の上で考え方が違うのは当然のこととして。見えてない範囲にも目を向ける努力、人と人とが国も年齢も、障害の有無も社会的地位も越えて、互いの意見を聞く心を持てる人が増えるといいなと思います。
そう言った点においても、先日の大桟橋のイベント参加は互いに歩み寄りながら参加でき、主催の方にはお気遣いを頂き、お互いに感謝の気持ちで終えることができて良かったなーと思いました。
また見ていた沢山の人が、素敵なダンスでした!と声をかけてくれました✨社交ダンスって聞こえなくてもペアダンスだから踊れるし可能性が無限大だー!って沢山の人に伝わった感じで嬉しかったです^_^
次回deaf関係のイベントとしては12月3日にコヤマドライビングスクールが主催する手話LIVEイベント『D’live』に出演します。
こちらはdeafパフォーマーNyankoさんと、ダンサー仲間でプロ競技ダンサーでもある新井汐里ちゃんそして私の3人チームで手話ダンスのナンバーを踊ります。
こちらも色々意見をぶつけ合いながら作品を作ってきました。Nyankoさんとの付き合いも約4年。様々な意見や考えの違いも乗り越えながら、一緒に踊り、付き合いを続けていられることに感謝しつつ、心温まる作品を届けられたらと思います!
郁美